反戦
侵略戦争も自衛戦争も、あらゆる戦争に反対である。人が人を殺す、殺される事に反対である。殆どの戦争は、侵略戦争であっても自衛戦争だと偽り開始される。第二次世界大戦は、第一次世界大戦の結果として再分割された世界の帝国主義的秩序に、日独伊が挑戦したものにほかならず、第一次大戦の延長としての帝国主義間戦争(市場分割侵略戦争)である。
旧ソ連中国等のスターリニストや米英仏の「連合国」等が主張するような「ファシズムと民主主義の戦争」ではない。それはアジア・アフリカ・ラテンアメリカや中東を侵略し、残虐な植民地支配を行っていた米英仏などの「連合国」帝国主義を美化するものであり、スターリニズムの犯罪を免罪するものである。
日本軍国主義は、1931年の満州事件を機に、一挙に中国侵略を全面化し、アジア・太平洋戦争に突入した。この中国侵略をめぐって、日本と米英との対立は深まっていったが、それは「ファシズムと民主主義の対立」ではなく、中国の帝国主義的権益をどちらが獲得するかをめぐる対立にほかならなかった。
アメリカ帝国主義にとっての太平洋戦争の目的は、最大の競争者である日本帝国主義を打倒し、中国市場を独占することを目指したものだった。そしてアメリカ帝国主義は、自らの支柱を蒋介石と国民党におき、これを戦後の極東における反ソ連勢力の中軸として育成しようとしていたのである。
こうした反動的な政策が、戦後の天皇制を温存させた日本占領政策や中国敵視政策、そしてベトナムへの侵略戦争と直結していった。
ムッソリーニのファシスト・イタリアは、最初からナチス・ドイツと親密であったわけではなかった。1935年3月、ヒトラーのドイツがベルサイユ条約を破棄して再軍備を通告した際には、英仏伊が会談して対独共同行動を約束し合っていた(ストレーザ会談)。しかしイギリスは、独自にドイツと海軍協定を結んでこの英仏伊の「結束」を破ってしまった。
この年10月から7カ月にわたって、イタリアはエチオピア侵略戦争を強行した。そして翌1936年3月、ドイツ軍がラインラント(ドイツ西部)を占領した。当時国際連盟は対イタリア経済制裁を決議したが、英仏政府はドイツに対してイタリアを自分たちの陣営に留めておく為、イタリアのエチオピア侵略を容認した。しかし逆にムッソリーニは、国際的関心をイタリアからそらせたヒトラーの役割を高く評価した。1937年には日独伊防共協定が結ばれ、第二次世界戦争への突入は益々高まっていった。
1938年3月にヒトラーはオーストリアの併合を宣言、続いてチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求した。ドイツの関心をソ連に向けさせようとするイギリス・チェンバレン政権はフランス・ダラディエ政権を説得し、共同してチェコスロバキア政府にドイツの要求を呑むよう威嚇的な勧告を行った。独英仏の圧力のもとでミュンヘン協定が結ばれ、チェコスロバキアは分割されてしまった。ヒトラーの要求は益々エスカレートし、全面戦争への道に突き進んで行った。こうした英仏など帝国主義者のどこに「反ファシズムや民主主義」があるのか。
第二次世界大戦は、1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド全面侵攻をもって始まった。ヒトラーに第二次大戦の引き金を引かせた直接の国際的背景は、言うまでもなくその一週間前に締結された独ソ不可侵条約であった。東方戦線の不安を一掃したヒトラーは電撃戦でポーランドを占領し、ソ連との間に分割協定を結んで東西ポーランドを山分けした。ソ連は、モロトフ・リッベントロップ協定に基づいてフィンランドに侵攻し、バルト三国を併合した。
第一次大戦終結から第二次大戦の勃発までの約20年間は、1917年のロシア革命に続いて、革命の波がヨーロッパを中心に広く世界をおおった20年間であった。1925年から1927年の第二次中国革命、1929年から1933年のドイツの危機とナチスの勝利、1934年から1936年のフランス人民戦線、1936年から1938年のスペイン人民戦線をはじめ、各国で労働者階級の闘いが高揚し、資本の支配を揺るがした。
これらの革命を直接沈めたのは蒋介石であり、ヒトラーであり、フランコであったが、闘いを敗北させた主体的責任がスターリンとコミンテルンの破滅的指導にあることは明白だった。
スターリニストは、スペインでは自らの統制に従わないPOUM(マルクス主義統一労働党)やトロツキスト、アナキストを、スペインのファシスト・フランコの軍と対峙するバリケードの背後から襲撃し、殺害した。
しかもコミンテルンは、世界革命の機関からソ連防衛のための外交手段に堕落させた。英仏など帝国主義諸国に接近を試みている時は、植民地の共産党は民族独立の要求さえ抑圧された。ところがヒトラーとの不可侵条約が結ばれると、とたんにスターリンはインドやアルジェリアやエジプトの独立を支持するようになった。そしてドイツとの戦争に突入すると、再びこうした英仏などの植民地独立要求は抑圧された。
スターリズムが第二次世界大戦の開始にあたって果たした犯罪的な役割に加えて、国際的な革命闘争と反ファシズム闘争を崩壊させたことによって、帝国主義が戦争を行うことを可能にした。
帝国主義の市場分割戦争としての第二次大戦に勝利した連合国帝国主義諸国は、この民族解放闘争に対して、一方では大幅な譲歩を余儀なくされながらも、第一次大戦後と全く同様の流血の弾圧と軍事介入でもって応えた。
その最も代表的な例がベトナムだった。1945年9月、ホーチミン率いるベトミン(ベトナム独立同盟)は日本軍の傀儡(かいらい)政権を打倒して独立を宣言した。しかし植民地宗主国たるフランスはこれを認めず、8年間にわたる対フランス独立戦争となった。
ベトミンはこの戦いにほぼ完全勝利したにもかかわらず、アメリカを中心とする帝国主義とソ連中国スターリニスト官僚の圧力でジュネーブ協定による南北分断を強制された。そしてその後、フランスにかわって全面的に軍事介入を開始した史上最強のアメリカ帝国主義の無差別大量殺りくに抗して、300万人もの命を奪われながら、1975年までベトナム戦争を闘わなければならなかった。
同様にフランスからの独立を求めたアルジェリアの解放闘争も、1962年に独立を勝ち取るまで、最大50万人に達したフランス侵略軍と闘うことを余儀なくされ、人口の実に9分の1にあたる100万人が殺される重大な犠牲を強制されたのである。
エジプトがイギリスからの独立を達成するのは、1952年7月のナセルらによる王制打倒の軍事クーデターだった。そして1956年のスエズ運河国有化宣言に対してイギリス軍はエジプトに上陸し、あわや全面戦争の危機となった。イギリスが最終的に手を引いたのは、国際的な反戦闘争の高まりに加え、インドとパキスタンが英連邦から脱退すると圧力をかけたからだった。
アフリカの多くの諸国が独立を達成したのは、1960年代に入ってからだった。アンゴラとモザンビークがポルトガルからの解放戦争に勝利して独立を勝ち取ったのは、1975年であった。世界最大の帝国主義超大国となったアメリカは、中米、南米をはじめ、反米政権や労働者農民に基礎を置く政権が成立した諸国や、そのような闘いが前進している地域に、次々に軍隊を送り、経済的・政治的な圧力をかけてそうした政権を転覆し、闘いを鎮圧するために全力をあげた。
第二次世界大戦を「ファシズムと反ファシズムの戦い」「侵略国と反ファッショ陣営との戦争」と規定するスターリニズムの路線と実践は、戦後革命を破産させるために決定的な役割を果たした。この路線は、結局のところ労働者の階級的闘いを抑制し、帝国主義者の誠実な協力者に押し留めたのである。
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